<説教要旨>
「譬話にある神の愛」(8/29)
「『あなたがたは、これらのことがみなわかったか。』 弟子たちは、『わかりました』と言った。」
(マタイ福音書13章51節)
パレスチナでは、財宝を素焼きの壺に入れ、地中に隠しました。強盗や兵隊の略奪から守る安全な方法でした。そして戦火が収まり、安心して地中に隠した宝を掘り出すのです。しかし土地の所有者が死亡したり奴隷となって他国に売り飛ばされる事になれば、地中の宝は偶然発見されるまで、隠れたままでした。ある小作の農夫が宝を掘り当てるのです。それは農夫の働きの・労働の成果では無く、誇り得る業績でもありません。イエスは、我々の人生そのものに、農夫の収穫物・業績とは全く別に、素晴らしい宝が隠れされていることを教えています。発見した農夫は大喜びし彼の生活を支えていた一切のものを手放すのです。人生の根拠の転換と言える出来事です。自分の畑を耕す自立した人間となったのです。真珠の譬は、商人が一個の真珠を見つけ、それを手に入れるために全財産を手放すと言う話です。商人は目にかかったことのない真珠を発見し、そのために一切を捨てるのです。発見した真珠への喜びと希求する心が言われていますが、そこに全財産をかけました。今三つの譬話を前に何れも「天の国」の譬話です。そしてその主役は誰でしょうか。外側から見れば、受動的に発見される宝と真珠ですが、実はそこからあらゆる力が出てくるのです。天の国とは、神ご自身の働きです。この出会いは、向こう側から、神の側から起こるのです。それを恵みの賜物として受け入れることが大切です。この譬話は、宝と真珠に象徴される天の国を前にした時に、人間はただその実存をかけてそれと向き合い、責任をもって自らの立場を明らかにすべきことを教えていると思います。パウロの改心を思いだしてください。主イエスの声を通して神の呼び掛けがなされました。その出会いは、正に人生の根拠の転換としての主イエスとの出会いであり、発見した出会いへの喜びと希求する心を真摯に求め、その実存をかけてそれと向き合ったパウロでありました。第三の譬話に登場する良い魚と悪い魚は、マタイの教会で、純粋な教会を性急に作ろうとすることへの警告を発しています。天の国は漁師の網に例えられ、イエスの意図されたことは、網の中身です。良い魚も悪い魚も混ざって共存している事実が教会です。その様々な人間、人々、信者の共存する秘訣は何でしょうか。私は、それこそ主イエスの愛に触れた、神の国の愛の支配の中に招かれている秘訣として、出会う一人ひとりに、「貴方は取って置きのあなた、掛け替えのないあなた、置き換え不可能なあなた」との主イエスの心として心に留めつつ出会いたいと祈っています。
(説教要旨/阿部記)