神戸教会の主日礼拝

毎日曜日 午前10時15分より

神戸教会の主日礼拝には、信徒・求道者・学生など毎週約120名の方が出席しています。ゴシック調の築88年の会堂にて、パイプオルガンの音色と讃美の声が響き、聖書の言葉に心を向け、牧者の説教が行われます。どなたでもどうぞお気軽に礼拝にご参加ください。

神戸教会の主日礼拝の様子

<礼拝案内>

主日礼拝
2022年7月3日(日) 午前10時15分より
【聖霊降臨節第5主日】 



説 教
「イエスがいる今
大塚忍牧師

聖 書
マルコによる福音書2章18~22節
詩 編
107篇17~22
讃美歌
21-120、21-79ほか





自宅礼拝用讃美歌 奏楽者:瀬尾千絵姉

 以下の讃美歌番号をクリックすると讃美歌が流れます。お好きな讃美歌をご自宅での礼拝にご活用ください。

21-17 聖なる主の美しさと

21-18 「心を高く上げよ!」

21-24 たたえよ、主の民

21-27 父・子・聖霊の

21-351 聖なる聖なる

21-475 あめなるよろこび

21-463 わが行くみち

21-493 いつくしみ深い

21-494 ガリラヤの風

21-575 球根の中には

「イエスがいる今」(7/3)

「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない」
(マルコによる福音書219節)

 与えられたテキストは、「断食論争」と「新しい布、新しいぶどう酒」の比喩から構成されています。マルコは、もともと独立していた二つの伝承を結びつけ、前者を後者で説明しようとしたのだと思われます。
 当時、断食は、罪の告白のため、災害、災難からの解放のため、喪に服するため、悔い改めを示すために行われたようです。また、断食は祈りの効果を高めるとも考えられていたようです。ここに登場する人々は、「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人々は、断食していた」にも関わらず、イエスの弟子たちが断食をしないことに違和感を抱きながらイエスのもとにやってきたのです。イエスは、彼らに対して「婚姻」の例えを用いて、今という時について説明します。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか」(19)と。花婿とは自分のことであり、「今は喜びの時である。そのような喜びの時に為さなければならないことは断食の他にあるのではないか。喜びの時に喜ぶのが人間の本来の姿なのではないか」とイエスは語るのです。イエスはさらに「しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断食する」(20)はとも語っています。「その日」とは十字架の日です。確かにこの日こそは、断食すべき日となる、とイエスは語ります。イエスと同時代に生きる人々にとって、断食すべき日というのは未来のこと、マルコ福音書の読者たちにとっては過去の出来事ということになります。
 イエスさはさらに「織りたての布切れ」そして「新しいぶどう酒」のたとえを語ります。イエスは、自分自身を「織りたての布」、「新しいぶどう酒」なのだ、と語るのです。わたしを古い価値観の枠組みの中に入れようとしても、それは無理だ、と言うのです。喜ぶ時に喜ぶ、怒る時に怒る、悲しい時に悲しむ、楽しい時に楽しむという、自然に備わっている感情が宗教によって押しつぶされてしまっている。イエスはここを問題にしたのではないでしょうか。
 「花婿が奪い取られる時が来る。その日には、断食することになる」は、わたしたちにとっては過去の出来事です。わたしたちは、この日を乗り越えて、今復活のイエスと共に新しい時を過ごしているのです。すべての罪、すべての重荷から解放された喜びの時です。しかし、わたしたちが生きている世界を見回すとき、多くの人々がこの喜びの時を奪われた状態にあるのが現実です。わたしたちは、この喜びの時を奪われることのないように、取り戻すためにしっかりと生きたいと思うのです。
(本日説教要旨/大塚記)

「共にいる神、そして隣人となること」(6/26)

「神の霊がサウルを襲うたびに、ダビデが傍らで竪琴を奏でると、サウルは心が安まって気分が良くなり、悪霊は彼を離れた。」
(サムエル記上1623節)

 王制導入以前の古代イスラエルの最後のリーダーであったサムエルによって油を注がれ、最初の王とされたベンヤミン族出身のサウル。「神が共にいる」(サム上10:7)ことによって、周辺民族との戦いにおいても勝利をおさめるサウルですが、主の言葉を退けたことでサムエルから失脚を言い渡され、続く物語は、次に油を注がれたダビデの台頭を語ります。本日の聖書箇所は、ダビデが初めてサウルに会い、その竪琴の音色で悪霊にさいなまれるサウルの心がひととき慰められる場面です。
 この場面の後には、ペリシテ人ゴリアトを倒して人々からの喝采を浴びるダビデにサウルが敵意を抱き、頭角を現していくダビデに何度も殺意を抱くサウルの姿が記されていきます。そのようなストーリーの中で、本日の箇所は、ダビデの竪琴が束の間、サウルの心を慰めることができた愛おしい時間を描いた場面にも思えます。しかし同時に、そのストーリーが「ダビデ物語」としてのストーリーであること、そしてもはやその背後の痕跡としてしか認めることのできないサウル伝承に思いを馳せる時、サウルを苦しめた「悪霊」とは何だったのだろうかとの思いにも駆られるのです。
 サウルの衰退とダビデの台頭をドラマチックに描くストーリーにおいて、主がサウルを離れ、ダビデと共におられることが繰り返し語られます。しかしそのような描写を見る時に、「主が共にいる」ことの意味を問わずにはいられないような気持ちになるのです。
 古代イスラエルの神の名。出エジプト記3章14節で神はその名を告げられます。「エヒイェ・アシェル・エヒイェ」。有賀鐵太郎氏は、ヘブライ語の動詞の動的な性質を指摘しつつ、この「エヒイェ」が単なる「存在」やギリシア的な「有」ではなく、「成る」「生起する」といった意味を含んでいることを指摘されました。そして「わたしはある」よりもむしろ「わたしはいる」と解するべきではないかとも。確かに神はその直前でもモーセに対して「わたしはあなたと共にいる」と語られています(出3:12)。概念的に「有る」神ではなく、私たち(他者)との人格的関係に自らを開き投じられる神の姿は、隣人とは誰で「ある」のかを問うた律法学者に対し、目の前の他者を介抱し、隣人と「なった」サマリア人の姿とも呼応しているように思われます。どのような時も「あなたと共にいる」と言われる神に、自身も他者と共に生きる空間に自らを投じていく姿をもって応答する私たちでありたいと願います。
(本日説教要旨/大澤記)

「友を思う」(6/12)

「イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、『子よ、あなたの罪は赦される』と言われた」
(マルコによる福音書2章5節)

 イエスの時代、理由のはっきりしない、慢性病に苦しむ者がいると、罪を犯した因果で病気になったのだという者たちがいました。「中風の患者」も根拠のない迷信によって苦しめられていたのです。物語に登場する四人は、中風の患者の友人たちだったのではないかと思われます。苦しむ友人が病から解放されることを切に望みながら、イエスがいる家までやってきたのです。彼らは大勢の群衆で近づくことができなかったために、屋根に上り、そこから中風の患者をつりおろしたのです。聖書には「その人たちの信仰を見て」という言葉が記されているとおり、イエスは彼らの内側を見ているのです。まっすぐに自分に向かってくる「誠実さ」そして「自分への信頼」を感じ取り、患者に「子よ、あなたの罪は赦される」と宣言したのです。この言葉は、当時の社会への挑戦的な言葉でした。律法学者たちは、すぐに「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪をゆるすことが出来るだろうか」と反応します。イエスが自分を「神」としていると受け取ったのです。
 イエスは彼らの考えを見抜き「中風の人に、『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いであるけ』というのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威をもっていることを知らせよう」と語ります。「人の子」とは、メシア論的称号でありました。同時に、ただ単に「人間」というだけの意味にも用いられてきました。マルコは、当然のことながら、イエスが、特別な権威をもっていたこと、神の子として歩んだことを証明しようとしています。同時に、まことの人の歩みを描こうとしているのです。本来、人というのは人をゆるすことができるのだ、和解を告げ知らせる働きをになっているのだ、と。
 マルコによる福音書のイエスは、「人に与えられている働きは、人を裁いて罪人を生み出すことではなく、罪に苦しむ人間に神様の赦しを語ること」と言うのです。神様は、赦しと和解を語り、共に生きるために人間を創造したのです。現代に生きているわたしたちは、神様が創造の時に与えてくださった働きを放棄してしまっているのではないでしょうか。失われつつある、忘れ去られつつありながらも、神様に与えられている働きを取り戻す努力をしながら生きることが、今を生きるわたしたちにも求められているのではないでしょうか。
(本日説教要旨/大塚記)

「聖霊に後押しされて」(6/5)

「一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」    
(使徒言行録2章4節)

 使徒言行録1章14節には、イエスが昇天した後の弟子達の様子が描かれています。「彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた」と。彼らは40日間、復活したイエスから自分たちが、これから何をすべきか、ということについて聞いていました。彼らは宣教のための準備をしていたのです。復活のイエスに出会う前の弟子たちは、この世における富や出世欲から解放されていない者たちでした。しかし、彼らは、復活のイエスに出会い、この世の価値観を重要視する生き方から、神様が望んでいることを想像しながら生きる者へと変えられていったのです。ここで祈られていた祈りというのは、自分を打ち砕く祈り、自分を空にする祈りだったのではないでしょうか。
 彼らは祈りながら五旬祭の日を迎えます。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい」(1・4)とのイエスの言葉に従い、「父の約束されたものである聖霊」がくだるのを待っていたのです。空にした自分の内側に聖霊が宿ることを待っていたのです。この時に、彼らは激しい風が吹いてくるような音を聞き、「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまる」という経験をし、聖霊に満たされていったのです。聖霊に満たされた弟子たちは、他の国々の言葉で話し出すようになります。彼らはこの家の扉を開けて、語り出したのです。聖霊に後押しされて語らずにはいられなくなったのです。2章6節には、弟子たちが様々な言語で話しだしたと記されています。重要なことは、イエス・キリストの福音がユダヤ人が用いていた言語ではない言葉で語られていったということです。これが聖霊降臨の出来事なのです。イエスの弟子たちが、自分自身を打ち砕き、聖霊の働きを求め祈らなければ、この出来事は起こりませんでした。宣教へと押し出されることもありませんでした。
 わたしたちは、今日ペンテコステ(聖霊降臨日)の時を過ごしています。これまでは復活節という時を過ごしてきましたが、本日より聖霊降臨節という暦に移っています。祈りながら、聖霊を与えられたイエスの弟子たちの働きを覚える時です。わたしたちもまた、心を静めて祈りによって与えられる聖霊に後押しされながら、イエス・キリストの福音を宣べ伝えるために与えられている場所へと向かっていきたいと思うのです。
(本日説教要旨/大塚記)

「苦しむ者のもとへ」(5/29)

「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである」
(マルコによる福音書1章38節) 

 イエスは洗礼者ヨハネから洗礼を受け、しばらく彼と共に活動を行っていたと考えられます。しかし、イエスは彼と別れ独自の活動を行うようになります。上村静氏はヨハネの洗礼について以下のように記しています。「ヨハネの洗礼は、自分はもう罪を犯さないで生きるぞと思える人にとっては自己満足できる儀礼であるが、職業や身体上の理由で『罪人』のレッテルを貼られている人にとっては、さらなる負い目を与えるものでしかない。『正義』を振りかざす時、人は非正義を実践しているのである」『旧約聖書と新約聖書』(p.206)と。洗礼を受け「義人」となったものが「罪人」を裁くようなことがあったのです。イエスは、ヨハネの洗礼によって手軽に「義人」、「罪人」が生み出されていく様子を見るようになりました。さらに、ヨルダン川まで来ることが出来ない人々のことを考えるようになっていったのです。そして、イエスは彼らのために宣教することを決断したのです。
 29節には「シモンとアンデレの家に行った」と記されています。マルコによる福音書では「家」(oikosoikia12921514321320717249331414)は繰り返し用いられる言葉です。徴税人の家に入るイエスの姿(215)、重い皮膚病の人の家に入るイエスの姿(143)が描かれています。他にイエスが拠点としていた「家」がありました。徴税人、病人は、この時代「罪人」というレッテルを貼られて苦しんでいた人たちです。これらの人々は、洗礼者ヨハネのもとには向かうことはできませんでした。イエスはその人々の「家に入った」のです。
 イエスは、シモンのしゅうとめの熱を癒やした後、祈っていました。彼は近づいてきた弟子たちに「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである」(38)と語っています。イエスは、孤独や絶望を抱えながら生きざるを得ない人々のもとに向かうことが自分の使命なのだ、と言うのです。40節以下に登場する「重い皮膚病を患っている人」とは、人々が住む場所から追い出され、隔離され、孤独と絶望の中を歩まざるを得なかった人です。イエスは誰も行こうとしなかった場所に、神様の言葉をつたえるために、向かって行ったのです。
 ヨハネによる福音書2019節以下には、十字架の後、ユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけて過ごしていた弟子たちの姿が描かれています。イエスはその家の中に入って「あなたがたに平和があるように」と語りかけられました。彼らも孤独、絶望、後悔の中に立っていました。そのイエスは、わたしたちのもとに来てくださっています。わたしたちも、この声に励まされながら歩んでいきたいと思うのです。また、イエスの平安と慰めを語るものでありたいと思うのです。
(本日説教要旨/大塚記)

「悲しみが喜びに変わる」(5/22)

はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。
(ヨハネによる福音書16章20節)

 今朝のテキストは、イエスの訣別説教(14:1‐16:33)の一部分です。13章では、イエスが突然に弟子達の足を洗い、その後ユダの裏切り、ペトロの離反の予告と続き、心を騒がせる状況でした。
 16節にイエスは「しばらくすると、あなたがたはもう見なくなる」と言われ、更に「またしばらくするとわたしを見る」と言われました。この言葉に弟子達は戸惑いました。この言葉は弟子達の自問として、またイエスの応答の言葉として繰り返されており、弟子達は互いに論じ合ったのです。この最初と次の「しばらくすると」の言葉には、「イエス不在の時間」があります。私共は聖書を読み、そのイエス不在の時間の前後は、イエスの十字架と死の出来事と判り、後はイエスの復活と判ります。
 イエスは弟子達の心の内を見抜き、「はっきり言っておく」と言われました。これはイエスが極めて大切なことを語る時の言葉で、「アーメン、アーメンわたしはあなたがたに宣言する」との言葉です。そして「あなたがたは悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ」と言われました。その間のイエス不在の時間についての説明ですが、弟子達にはまだ判らないのです。ヨハネによる福音書には全般にわたり光と闇の対峙した世界として描いていますが、この構図で語った言葉です。
 そして妊婦の例え話を語ります。妊婦の苦しみから喜びへと言うことと、弟子達の悲しみから喜びへとの言い方には、少しニュアンスが違うようですが、ここではリュペーとの同じ語が用いられ、「悲しみ・苦しみ・痛み」同じ意味で言われています。妊婦の身体の痛みが喜びに、弟子達の心の痛みが喜びになると思います。弟子達にも納得した例えでしたが、弟子達にお前達は未だ判らないのかと叱責するのではなく、あるがままの弟子達を受け止めておられます。
 「その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない」と明言され、復活、聖霊降臨、さらには終末を示しておられます。イエスの言葉が語られ、聞かれ、信じられる「イエスの臨在」、つまりイエスが共にいてくださる事実こそ、私たちの喜びです。でも現実の世界は病んでいます。イエスが共にいてくださる事実に働かれる神の受容のエネルギーを信じて祈りつつ歩みたいと思います。 (本日説教要旨/阿部記)

「新しい教え」(5/15)

「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ」
(マルコによる福音書1章27節)

 マルコは、カファルナウムの会堂で教えるイエスの教えに人々は非常に驚いたと報告しています。「律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである」(1・22)と。「律法学者」は律法の教師として地方を巡回し会堂で人々にどのようにすれば救いに与ることが出来るのか、ということを教える者たちでした。彼らは有名な律法の教師たちの名前を一人一人あげ、自分の言葉の正当性を確保し、言葉を語っていたようです。しかし、イエスはこの方法をとりませんでした。イエスは人の言葉ではなく「今、この時、この現実の中で神様は自分自身に対して何を語るようにと命じているのか」を常に汲み取りながら語る者であったのです。 「汚れた霊に取りつかれた男」とは、何らかの病を抱えた人だったのではないかと思われます。古代社会においては、病気や心身の不自由な人は、その人がなんらかの「罪」を犯したために汚れてしまったと考えられていたようです。「汚れ」は伝染するとも考えられていました。しかし、イエスはこの人のもとに向かって行ったのです。律法は、本来人のいのちをまもるものだったのですが、人を抑圧する暴力的装置として働くようになっていたのです。イエスは、この暴力的装置から人々を解放しなければならないと考えたのです。 イエスは律法遵守による救いの完成を語りませんでした。「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」(マタイ5・45)と宣言したのです。有限で小さな人間がいくら努力をしたところで、救いにあずかることなどできないのだ、とはっきり語っているのです。人間が唯一救いに至ることができるのは、圧倒的な神様の恵みによるものなのだ、とイエスは語っているのです。創世記の1章31節には「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった」とあります。しかし、人間はその神様の思いとは反対に、良いものと悪いものを生み出すようになっていったのです。イエスはこの創世記に記されている神様の思いを取り戻そうしたのではないでしょうか。 わたしたちが生きている世界が揺れ動いています。戦争によって、これまでの価値観が崩壊していくことも感じています。変わっていかなければならないこともあります。しかし、変わってはならない部分もあります。わたしたちも人の声ではなく、神様の声、思いに聞きながら与えられる役割を果たしていきたいと思うのです。(本日説教要旨/大塚記)

「福音に生きる」(5/8)

「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」
(マルコによる福音書1章14節)

 マルコによる福音書は「イエスはガリラヤへ行き」(14)という言葉によってイエスの宣教開始を伝えます。ガリラヤは紀元前8世紀にアッシリアの支配下に入り、それ以降も、様々な外国の支配下におかれたことによって、純粋なイスラエル民族ではない、などと言われ差別の対象にもなっていました。イエスは忘れ去られ、差別され続けてきた人々の生命に目を向けながら、ガリラヤに向かって行ったのです。
 15節にはイエスのガリラヤでの第一声が記されています。「時は満ち、神の国は近づいた」と。この言葉は「神の国はもうここに来ている」という意味にも理解することができます(ルカ17・21参照)。さらに、イエスは「悔い改めて福音を信じなさい」(15)と語ります。ここで使われている「悔い改め」とは、単なる過去の過ちを懺悔することではなく、これまでの歩みとはまったく違う方向転換の促しであります。「福音」(エヴェンゲリオン・よき知らせ)とは、罪からの解放です。それまで、罪から解放されるのは、律法を忠実に守ることによって、と信じられていました。しかし、イエスは律法を守るという人間の業と決別することを求めたのです。
 16節以下には、弟子の召命物語が記されています。「わたしについてきなさい。あなたがたを人間をとる漁師にしよう」(17)というイエスの呼びかけに応じて、「すぐに網を捨てて従った」弟子たち、また「父、雇い人たちを舟に残して」イエスに従う弟子たちの姿が描かれています。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」という呼びかけに応える弟子達の姿がそこにはあります。彼らは、イエスに従うことによって「イエス(=福音)」という方の中に自分自身が組み込まれていくことを感じたのではないでしょうか。
 しかし、聖書は正直な書物です。福音の中で生きようとする者たちの劇的な場面を描きつつも、人間の現実をえぐり出します。わたしたち人間は、福音の中に身を置いていることを、忘れてしまうことがあると言うのです。イエスが隣にいる、イエスに包み込まれているにも関わらず、その存在を忘れてしまうことがある、と(マルコ4・35以下)。この「突風の物語」は、時の経過によって、福音の中に生きていることを忘れてしまうことがあること、そのことによって「揺らぎ」が生じてしまうことがあることを伝えています。しかし、イエスはそのようなわたしたちに「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」と繰り返し語ってくださるのです。福音の中にいることを想い起こさせる言葉です。わたしたちは、揺れ動く日常の中で語られているこの言葉に励まされながら歩んでいきたいと思うのです。
        (本日説教要旨/大塚記)

「イエスは今もわたしたちと共に」(4/17)

「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか」
(ルカによる福音書24章5節)

 福音書によれば、イエスが十字架につけられたのは午前9時、十字架上で亡くなったのは午後3時でした。逮捕から死刑まで半日の出来でした。あっという間にイエスは、この地上から消されていったのです。
安息日の翌日、週の初めの日に女性の弟子たちは、イエスの遺体が安置されていた墓に出かけます。彼女たちは、そこで大きな衝撃を受けることになります。納められていたイエスの遺体がないことを確認したのです。さらに彼女たちの前に、二人の人が現れます。そして「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか(中略)まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい」(5、6)と言ったのです。批評家若松英輔の言葉が思い出されます。「君の大切な人も、ぼくの、またほかの人々の大切な人たちもいつかは亡くなる。逝った人々の姿はもう見ることはできない。でも、見えないということと、存在しないこととは違う。見えなくたって、ふれることができなくたって、存在しているものはある」と。聖書に登場する女性たちにとってイエスは、死人であり、見えない人になっていました。死人、見えない人というのは、「過去の人」でした。けれども、この二人の天使は女性たちに決定的に重要なことを告げているのです。あの人はまだ過去になっていない、と。イエスを十字架につけた人々は、イエスを亡き者、見えない者にしたことによって、イエスの全てを奪ったと考えました。しかし、イエスの命を奪い去ることはできかなったのです。イエスは生きているのだから、死者の中にいるはずがない。イエスは「現在の人」であることをこの二人の天使は、伝えているのです。そしてイエスが話したことを思い出すようにと、語るのです。女性たちは、この天使が命じられた通り、イエスの歩み、イエスの言葉を思いす作業を通して、イエスが復活したことを確信していったのです。
神学者カールバルトは「復活日の秘密は、この世に一回限り語りかけられた希望というのではなく、むしろこの世に植え込まれた希望である」と語っています。植え込まれた希望ですから、2000年間、途切れることなく継続している希望なのです。わたしたちは、このイースターの時、植え込まれている希望を確認しなければならないのです。「イエスは復活して今も生きている」。この希望に支えられながら歩んでいきたい。また、この福音の出来事を喜びながら語る者でありたいと思うのです。
  (本日説教要旨/大塚記)

「御心のままに」(4/10)

「この杯をわたしから取りのけてください。
しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」
(マルコによる福音書14章32節)

受難節第6主日・棕梠の主日 に「ゲッセマネの祈り」がテキストに与えられました。ゲッセマネに来ると「イエスはひどく恐れてもだえ始め」(33)ます。「もだえた」という言葉には「困惑する」という意味があります。神様の福音のために活動してきたにも関わらず、自分は今死を覚悟しなければならないところまで、追い詰められている。「なぜ」と問うことによってイエスは困惑したのです。イエスは弟子たちに「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい」(34)と言います。イエスは弟子たちに「共に祈ってほしい」と願いながら自分自身も祈りを捧げます。「アッバ、父よ、あなたは何でもお出来になります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」(36)と。今苦しむこのわたしの現実を取り除いてほしい、と願っているのです。同時にイエスは「わたしが願うことではなく」という言葉を加えています。前の言葉「苦難の杯」を後の言葉「神の御心」で打ち消そうとしているのではありません。どちらも、イエスの本当の思いであり、人間としての切なる思いなのです。前の言葉が、後の言葉の従属的な関係になっているのではなく、両軸になっているのです。人の現実、日常というものは簡単に、あれか、これか、とどちからには割り切れるものではないということを、このイエスの祈りは伝えているように思われます。イエスが、自身の活動の力を神様から得ていたということは確かです。同時にイエスは自分の目の前に広がっていた、苦悩する者の日常にも徹底して誠実に向き合っていました。苦悩する人間、悲しむ人間、圧倒的なこの世の力に震える人間の現実、それらの日常にも誠実に向き合っていたのです。イエスが「日常の外部」にのみ生きようとしていたならば、あれだけの活動を行うことはなかったし、あれだけの活動を行う必要性も感じなかったことと思われます。しかし、イエスは理不尽に日常がゆがめられ苦悩する人々の現実の変化をも求めながら歩んでいたのです。
 イエスは私たちにとってのキリスト・救い主であると同時に、わたしたち信仰者のひな形でもあります。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」。私たちの日常に、そして神の世界に目を向けながら、イエスの祈りを、わたし自身の祈りとしながら歩む者でありたいと思います。棕櫚の主日を迎え、受難週を過ごそうとしています。もう一度、イエスのこの地上への到来の意味、この地上における言葉、振る舞いを思い巡らせながらこの時を過ごしていきたいと思うのです。(大塚記)

「仕えるために」(4/3)

「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」
(マルコによる福音書1045節)

  マルコによる福音書は、パウロ書簡よりも後に記された文書です。パウロは「わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです」(コリI 2・2)と語る通り、死んで復活したイエス・キリストから与えられる救いを語ります。対して、マルコはパウロの福音を補完する形で、生前のイエスの言葉、振る舞いを記していきます。あの人はわたしたちと共に生きてくださった。しかし、わたしたちはあの人を見捨てしまった。もう一度、その「罪」を思い起こさなければならない。その自覚が福音書執筆の原動力になっていったのだと思われます。福音書執筆時、エルサレムの教会は非常に権威主義的傾向を持ち始めていました。マルコはそのような教会を見つめつつ、再度、イエスに真摯に向かい合おうではないか、と促しているように思われるのです。
 35節以下には、イエスの活動の初期段階に弟子となったゼベダイの子ヤコブとヨハネが登場します。重要な場面には必ずこの二人が登場しています。マルコは、この二人をイエスの最も近くにいながら、イエスを理解することが出来なかった者として描きます。二人は「栄光を受ける時に、兄弟である自分たち二人があなたの右に、もう一人を左に座らせてほしい」とイエスに願ったとあります。41節には、他の弟子たちが二人のことで腹を立てたとありますが、この怒りは自分たちを出し抜いて、右大臣に左大臣にしてほしい、などという話を進めているということに対してのものです。マルコは、イエスの弟子集団に、権威主義的思考が蔓延してしまっていたということを伝えているのです。イエスはそのような弟子たちを呼び寄せて語りはじめます。「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく、仕えるために」(44−45)と。
 イエスは、弟子たちに「すべての人の僕になりなさい」と語られました。そして「人の子は仕えられるためではなく仕えるために」とも語っています。わたしたちは、受難節のときを過ごしています。すべての人の僕となって歩んだイエスの姿、それゆえに十字架の道を歩むことになったイエスの姿を思い起こしながら過ごしたいと存じます。また、わたしたち自身もイエスの弟子として「他者に仕える」歩みを模索しながら歩んでいきたいと思うのです。
(大塚記)

「主を宣べ伝える」(3/27)

  「わたしたちは、このような宝を土の器に納めています」
(コリント第二4章7節)


「土の器」という言葉は、人間の本質を鋭くまた緩みをもって示すものとなっています。自分を「土の器」であると見立てることは、欠点を持ち、弱さを抱えた自分の人間性を示すと言われています。強そうに見えても壊れやすい、そのような人間の限界性や、人間の不完全さを示す言葉です。あるいは、もっと深く自己懺悔の心が混じるような言葉とも言えます。この「土の器」のイメージは、旧約時代に遡ると考えられています。創世神話のように人間の被造性を表している代表的な言葉であると言えます。
 フランス文学者であった森有正さんは、このパウロの「土の器」という言葉を大変好まれた一人です。『土の器の中に』という講演集があります。彼は「わたしはこの言葉が好きだ。この土の器をいうことを考えるとき私は心が清められる思いがします」、「すべて、この世に生きる人間は、自分に対する信頼をもって生きている。そこに生き甲斐というものを感じています。けれども、ここには、それとは全然違う一つの人生というものができている。人間が自分は神に造られた『土の器』であり、土から造られ、土に返るものであるとわかるとき、実にこの人生というものが、本当に意味で、透明になり、また単純になり、しかし、限りなく深くなる」と。この指摘の中には、人間の被造性、有限性、壊れやすさ、弱さ、そのことに気付いていくことの大切さ、あるいは、本当の意味で人生の深みに到達できる思いが込められているようです。
 パウロも同様に「土の器」との自己理解をもつことにより、生かされてある存在としての自分を深く見つめることができたのでしょう。憐れみにより生かされているとう自己理解故に、彼はどんな状況の中でも「行き詰まらない」「失望しない」「見捨てられず」「滅ぼされない」(8~9節)との確信をもって宣教的使命に邁進します。
 人は、自分の能力や業績や地位に自分の誇りを置く時、また、その力を失う時、動揺や不安を覚えるものです。しかし、神の憐れみによって生かされていることに気付く者は、自分の弱さや破れの故に、そこにこそ神の恵が溢れていくことを知らされていきます。
 パウロは「わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています。イエスの命がこの体に現われるために」(10節)と自身の「土の器」にイエスの生と死が宿ると語ります。イエスの生と死をこの身に受けるというのです。それこそが、かけがえのない宝であり、イエスと共に復活の命に与らせてくれるとの希望を語ります。そのイエスの命と希望を生涯をかけて共に宣べ伝えていきたいと思います。 (本日説教要旨/菅根記)
 

「『わたしの』メシア」(3/20)

「あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」
(マルコ福音書8章33節)

 本日の聖書個所、マルコ福音書8章27節からで報告される物語は「ペトロの信仰告白」として有名な個所です。ペトロは「あなたは、メシアです(29節)」とイエスに答える場面です。マタイ福音書の並行記事では、ペトロの信仰をイエスは賞賛してペトロに「天の国の鍵」をお授けになります(マタイ16章19節)。しかし、この物語のベースであるマルコにおいてはイエスがペトロを賞賛する場面は描かれておりません。この後の記載はマタイの編集であることがわかります。マルコにおいてはイエスはただ「御自分のことをだれにも話さないように(30節)」と戒める描写が描かれます。ここの解釈は様々ですが、ある解釈によれば、イエスがお尋ねになったのは、御自分がだれであると弟子たちが考えているのかではなく、弟子たちが民衆にイエスが何であると話しているのかとお尋ねになり、それに対して「メシアである」と答えたのではと考えられております。そしてそのように言う弟子たちをイエスが戒められたのです。
 なぜイエスは弟子たちを戒められたのでしょうか。それは、後のイエスの「受難予告」の場面で示されていきます。イエスが殺される未来を予告した時、ペトロはイエスをいさめ、そしてイエスに厳しい言葉で叱られてしまいます。そして「あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている(33節)」と語られます。イエスが自分の死を予告した時、ペトロをはじめとした弟子たちはイエスが自分たちの前からいなくなってしまう、自分を導く存在がいなくなってしまうことに大きな不安を抱いたことでしょう。その不安から出たペトロのいさめる行動でしたが、「人間のことを思う」行動であるとイエスはいうのです。
 ペトロはイエスを「メシア」であると告白しました。しかし次の瞬間には「救い主」としてのイエスの道を否定するような行動に出てしまった。矛盾するように感じるものですが、そうではありません。ペトロの言った「メシア」とは当時のユダヤの人々が待ちわびていた「ユダヤの民を解放してくれる」「ローマの圧政から、日々の困窮から」解放してくれる「政治的指導者」とも言える存在でありました。ペトロを含め多くの人々はイエスを「自らが求める、理想とする存在」として、「自らの理想」を当てはめてイエスを理解しようとしていたのです。それが「人間のことを思う」ということであります。
 目先の利益や希望に心をとらわれ、真の希望が見えなくなってしまう。そんな人の弱さがここで示されているのです。これは現代を生きる私たちにも同様に言えることです。物事を自分の求めるように、自分本位に捉えようとしてしまう弱さがあります。そんな自分本位な在り方の危うさがこの物語から示されていきます。この受難節の時。自らの信仰を見つめ直し、悔い改めの思いをもって、真の希望に目を注いで行きたいと願います。

(説教要旨/髙塚記)

「捨てられた石」(3/13)

「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった」
(マルコ福音書12章10節)

 イエスが誕生した時のユダヤの王、ヘロデは紀元前23年頃からエルサレム王宮とエルサレム神殿の大規模な改築に着手します。この工事は紀元60年代まで約80年間かけて行われました。もちろん、彼の存命中には工事は完成しませんがとりあえず第1次工事が完了したのがイエスの誕生前後と言われています。1万人以上の労働者を用いて約20年かけて神殿を造り上げたと言われています。当時のエルサレムの人口が約4~6万と言われていますから、大変な工事であったことが分ります。
 特に、この神殿の素材となった石は見事なもので、「先生ご覧下さい。なんとすばらしい石。なんとすばらしい建物なのでしょう。」(13章1節参照)とエルサレム神殿を見た弟子たちが感嘆の声を上げたことからも分かります。しかし、イエスは「このすばらしい石」「すばらしい建物」も崩されていくことを予告しています。
 今日のテキストである「葡萄園と農夫の譬えの物語」(12章1~12節)の中で、上記の言葉のように、石材を比喩にした言葉、すなわち「捨てた石」が「隅の親石」となったとイエスが語っているところがあります。これは詩編118編22~23節の引用です。見捨てられた民こそが神にとっては重要な礎石、アーチを作る時の要石となると言うのです。つまり、この物語は、実は「捨てられた石」すなわち、イエス自身の生き方に支えられていることと、そのことに対する人の「気づき」の問題が横たわっています。また、「捨てられた石」に「隅の親石」を見る信仰の奥深さを示しています。
 また、この譬えの物語は人間(農夫)と神(主人)との歴史的な関係を示すものとなっています。神は「僕」(預言者たち)や「息子」(イエス)を派遣するように執拗に忍耐し、なお、頑な者との関係を修復しようと試みる、神の寛大さが語られています。また逆に、人間の頑なさを突き詰めるような展開となっています。繰り返される人間の過ち、人間が神を拒絶する凄みを「息子」殺害(7節)という比喩から読み取ることができます。それは、神殿の石を「すばらしい」と驚嘆する、虚飾と虚栄のみしか見ようとしない弟子たちの在り方や、自分の頑なさや過ちを中々見つめない律法学者たちへの批判でもあります。それはまた、私たちへの厳しい問いかけとなっています。
 イエス自身が「捨てられた石」となり、崩れそうな私たちをなお支えて下さる。この石を「躓きの石」にするか、「隅の親石」にするか、自分を見つめながら自問自答してレントを過ごしていきたいと思います。

(説教要旨/菅根記)

前の説教要旨は下の説教題をクリックすると見れます。(前年度のものは「2020年度説教要旨」のリンクにまとめています。)

「柔和な方イエス」(3/6)
「イエスが触れると」(2/27)
「イエスへの信頼」(2/20)
「心において悟る」(2/13)
「主の言葉は永遠に」(2/6)
「生かされてある命」「教会に帰ろう」(1/30)
「権威ある新しい教え」(1/23)
「新しい存在としての招き」(1/16)
「真実の言葉を求めて」(1/9)
「心を新たにして」(1/2)
「星の光に導かれ」(12/26)
「神の独り子イエス」(12/19)
「主の道をまっすぐに」(12/12)
「コルバンをめぐる論争」(12/5)
「主を待つ心」(11/28)
「天に富を積むこと」(11/21)
「イエスの眼差し」(11/14)
「涙するイエス」(11/7)
「神による完全」(10/31)
「神の前に豊かに」(10/24)
「十字架の愛によって」(10/17)
神学校日礼拝説教要旨(10/10)
「心の底から新たにされて」(10/3)
「今日リンゴの木を植える」(9/26)
「掴もうとする力を緩めて」(9/19)
「生かされてある恵」(9/12)
「キリストにある交わり」(9/5)
「譬話にある神の愛」(8/29)
「キリストにある交わり」(8/22)
「わかってほしい!」(8/15)
「神存在の遠近」(8/8)
「悔い改めの布告」(8/1)
「罪人を招く主」(7/25)
「憐みの器として」(7/18)
「今や恵みの時」(7/11)
「祈りは聞き届けられる」(7/4)
「心のともし火を絶やさず」(6/27)
「豊かさに満たされて」(6/20)
「命の言葉を保って」(6/13)
「神と向き合う人生」(6/6)
「御心に適って」(5/30)
「霊の導きに従って」(5/23)
「心の目を開いて」(5/16)
「このように祈りなさい」(5/9)
「ただ、イエスを見つめて」(5/2)
「このことを信じるか」(4/25)
「心に深く刻まれる恵み」(4/18)
「今日を新しく生き直す」(4/11)
「わが主よ、わが神よ」(4/4)
 2020年度説教要旨