神戸教会の主日礼拝
毎日曜日 午前10時15分より
神戸教会の主日礼拝には、信徒・求道者・学生など毎週約70名の方が出席しています。ゴシック調の築92年の会堂にて、パイプオルガンの音色と賛美の声が響き、聖書の言葉に心を向け、牧者の説教が行われます。どなたでもどうぞお気軽に礼拝にご参加ください。
神戸教会の主日礼拝の様子
<礼拝案内>
主日礼拝
2025年5月4日(日) 午前10時15分より
復活節第3主日
説 教
「命の言葉を聞いて」
大垣副教師
聖 書
マタイによる福音書12章38~42節
交 読 詩 編
116編1~14節
賛美歌
21-51、21-59ほか
祈祷会
第1水曜日 午後6時30分より
<説教要旨>
「疑念と不信のただ中で」(4/27)
「数人の番兵は…この出来事をすべて祭司長たちに報告した。」
(マタイ福音書28章11節)
本日の聖書日課は、復活の出来事に対するユダヤ人の反応に関する報告です。ユダヤ教の神殿信仰に立つ人たちは、復活そのものを否定していました。そこでイエスの復活についても、弟子らが師の亡骸を掠奪して彼が復活したと、ひと芝居うっているというのです。疑念と不信の渦中にありました。
この物語はマタイ福音書だけが報じているため、研究者の中には、この記事を執筆者による後付けの創作(史実ではないもの)として軽視し、退ける傾向があります。ウィリアム・バークレーというスコットランドで長く牧会に従事し、後に大学で新約学教授を務めた先生は、短い聖書箇所にも長大なコメントを記すことで知られていましたが、この箇所には数行の説明を施しただけでした。
しかしマタイの創作と決めつけるのも早計です。一般的に聖書の伝承は、人々が語り継いで福音書に採用されたと考えらています。そうであれば、これは他の福音書記者も聞いたことのある話だったでしょう。ではなぜマタイ福音書の執筆者だけが、この伝承を復活物語に書き入れたのでしょうか。
福音書執筆の動機や対象については、多様に説明されています。大ざっぱに、マルコはイエスの死後30年ほどの時期に初代の信徒のため、イエスの生涯をまとめる必要を感じたゆえに、ルカはローマ帝国の各地に住む諸国民にイエスを時系列で紹介するために、ヨハネはギリシア哲学の素養をもつ人にイエスを理解してもらおうとして、と申します。
マタイはイエスが旧約聖書の信仰の延長線上に立つ人であることを語るため、ユダヤ人に向けてこの書を著したと言われます。確かに他の福音書と比べて、マタイには旧約からの引用が圧倒的に多いことが知られています(新共同訳巻末の一覧表では、マタイ62回、マルコ31回、ルカ26回、ヨハネ16回)。実際にイエスを旧約が証言する救い主として受け入れたユダヤ人の改宗者は少なくありませんでした。マタイ福音書の執筆者はユダヤ人にシンパシーを感じていた人ですから、この伝承を、祭司長らユダヤ教の主流派を上から見下すように批判することを主要な目的として採用したと見るのは乱暴であると思えます。よりへりくだった観点から、伝統的なユダヤ教の信仰に立つユダヤの人々との相互理解のため、自らの見解も提示しながら、その疑念に近づこうとしたと考える余地も残して置くことが望ましいでしょう。
マタイは28章前半に、マグダラのマリアらとイエスとの出会いを記しました。イエス復活の知らせを聞き、疑念と不安の煮え切らない想いの中で「恐れながらも大いに喜び」(9節)つつ走るマリアらに、イエスは「おはよう」(直訳「喜べ」)、そして「恐れるな」(10節)と声をかけました。疑念と不安の中に割り込んでこられたのです。それが聖書の使信です。11節以下の疑念と不安の中にあるユダヤ人にも、そして私たちにも、復活のイエスは、入り込んでこられます。
(本日説教要旨/飯記)
自宅礼拝用賛美歌 奏楽者:瀬尾千絵姉
以下の賛美歌番号をクリックすると賛美歌が流れます。お好きな賛美歌をご自宅での礼拝にご活用ください。
21-17 聖なる主の美しさと
21-18 「心を高く上げよ!」
21-24 たたえよ、主の民
21-27 父・子・聖霊の
21-351 聖なる聖なる
21-475 あめなるよろこび
21-463 わが行くみち
21-493 いつくしみ深い
21-494 ガリラヤの風
21-575 球根の中には