神戸教会の主日礼拝

毎日曜日 午前10時15分より

神戸教会の主日礼拝には、信徒・求道者・学生など毎週約120名の方が出席しています。ゴシック調の築87年の会堂にて、パイプオルガンの音色と讃美の声が響き、聖書の言葉に心を向け、牧者の説教が行われます。どなたでもどうぞお気軽に礼拝にご参加ください。

神戸教会の主日礼拝の様子               

<礼拝案内>

主日礼拝
2021年4月18日(日) 午前10時15分より
【復活節第3主日
説 教
「心に深く刻まれる恵み」
菅根信彦牧師

聖 書
マタイによる福音書12章38~42節
詩 編
116篇1~14
讃美歌
21-321、21-448、21-507





自宅礼拝用讃美歌 奏楽者:瀬尾千絵姉

 以下の讃美歌番号をクリックすると讃美歌が流れます。お好きな讃美歌をご自宅での礼拝にご活用ください。

21-17 聖なる主の美しさと

21-18 「心を高く上げよ!」

21-24 たたえよ、主の民

21-27 父・子・聖霊の

21-351 聖なる聖なる

21-475 あめなるよろこび

21-463 わが行くみち

21-493 いつくしみ深い

21-494 ガリラヤの風

21-575 球根の中には

「心に深く刻まれる恵み」(4/18)

「よこしまで神に背いた時代の者たちは、しるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしの他には、しるしは与えられない」

(マタイ福音書12章39節)

 明日4月19日(月)は神戸教会の創立147年の記念日です。私たちの教会は1874年(明治7年)イースター礼拝にてアメリカン・ボードから派遣されたD・C・グリーン宣教師から洗礼を授けられた11名の信徒によって摂津第一公会として設立しました。西日本では最初のプロテスタント教会として誕生します。この日の創立礼拝でデーヴィス宣教師は教会員への奨めをして「この日から愛が新しい意味を持った」と片言の日本語で語ったと記されています。「長い間育まれてきた神と他者への愛が結実し、愛の交わりの場」として教会が誕生したことを伝えています。主イエスを通して示された神の御心は教会員の目に見えない関係性の中でこそ結実することが示されました。
 さて、本日の聖書個所は「人々がしるしを欲しがる物語」です。何人かの律法学者とファリサイ派の人々がイエスに対して、「天からのしるし」を求めてきたという描写で今日の物語が始まります。彼らは真剣にイエスが神の子であることの保証、明瞭なしるしを求めます。それは、イエスのメシア性についての「公開調査」のような性格を帯びています。
 使徒パウロが「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵をさがします」(コリント第一1章22節)と語ったように、彼らはイエスに対して「天からのしるし」を求め願います。「しるし」(セ―メイオン)とは、自らが神から遣わされた救済者・預言者であることを承認させ、信仰を持たせるための自己証明をするために敢えてなす行為であると言われています。しかし、イエスは敢えて「しるし」を示すことを控えます。イエスは神の真理を保証するしるしなどは地上には存在しないとのニュアンスをもって「ヨナのしるし」以外にはないこと訴えます。
 「ヨナのしるし」とは、「ヨナが三日三晩大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩大地の中にいることになる」(40節)との言葉のようにイエスの予型となっています。ヨナ書で、神がニネベの人々に語られたように、今イエスにおいて神が特別に語られるということ以外に地上にいかなるしるしはないと強調するのです。そして、ヨナの言葉によってニネベの人々が断食し悔い改めたこと、あるいは、ソロモンの知恵を聞いたシェバの女王が遠路をよりエルサレムを訪ねたことは、神への信頼に委ねた行為であったことを指摘します。それはしるしのみを求める人々への痛烈な批判です。
 客観的なしるしとしての保証を求める者に対して、イエスは神の恵みは人の心に深く刻まれていくことを伝えています。神と人、人と人との人格的な関係性の中でこそ現実化するようです。その心の奥底に深く刻まれる主の恵みに応えていきたいと思います。

(説教要旨/菅根記)

「今日を新しく生き直す」(4/11)

「シモン・ペトロは『主だ』と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ」

(ヨハネ福音書21章7節)

 ヨハネ福音書の書かれた時代は、教会に対するローマ帝国による迫害が本格化する直前、特にユダヤ教徒よる迫害が相当に厳しくなった時代です。教会の宣教活動が停滞もしくは後退する中、教会員は人間的な努力だけではとても宣教が進展しないことを強く感じていたようです。復活したイエスの存在と言葉の励ましなくしては生きることができない状況があったようです。
 今日の物語は復活のイエスが、ティベリアス湖畔へ現われた「ガリラヤでの顕現物語」です。「大漁の奇跡物語」(3~6節)、「弟子たちと共なる朝の食事の物語」(9~14節)と続きます。漁に行ったシモン・ペトロを始めとする弟子たちは「その夜、何もとることができなかった。」(3節)との言葉のように、その漁が徒労に終わってしまったことを伝えています。「昔とった杵柄」で生きようとした弟子たちの憔悴した姿が表現されています。「私を離れ、あなた方は何もできない」(15章5節)とのイエスの「告別説教」の指摘の通りでした。しかし、その最中に復活のイエスは湖岸に現れ、「船の右側に網を打ちなさい」と語るのです。そして、大漁の奇跡を導いていきます。
 この大漁の奇跡を経験したペトロが向こう岸に立つイエスを見て湖に飛び込む記述が続きます。「上着をまとって」(7節)と訳されている個所ですが、これは、「仕事着」のことです。ペトロは裸が失礼であるから上着を着たのではなく、日常の虚しさ、宣教活動の虚しさ、徒労に終わるような失望感、それらすべてをひっ下げてイエスのいる岸辺に向かって飛び込むのです。
 このように、イエスの復活の命に押し出されて歩み出した初代の教会は、この弟子たちのように信仰的には一進一退を繰り返して歩んでいたのではないでしょうか。つまり、イエスが繰り返し復活した姿で弟子たちの前に現われ、励ましを与えなければ、共同体の信仰を守ることができない現実があったのでしょう。それが、ヨハネ福音書21章が加筆されなければならなかった状況です。
 そのような徒労で終わりそうな日々の中で、イエスは「朝の食事をしなさい」と弟子たちに語りかけます。しかも「炭火が起こしてあった」とあるように、イエスが先立って私たちのためにパンと魚を用意されて招いてくださっているのです。朝はいつでも主の業をなすべく遣わされる時です。朝は出発の時です。神の慈しみと恵みは朝ごとに受けとめるものであるようです。夕べに落胆し、失意にかられても、復活のイエスは朝再び立ち上がることを許してくれるのです。「さあ、来て朝の食事をしなさい」とのイエスのさわやかな言葉を毎朝のように聞いていきたいと思うのです。


(説教要旨/菅根記)




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