神戸教会の主日礼拝

毎日曜日 午前10時15分より

神戸教会の主日礼拝には、信徒・求道者・学生など毎週約120名の方が出席しています。ゴシック調の築88年の会堂にて、パイプオルガンの音色と讃美の声が響き、聖書の言葉に心を向け、牧者の説教が行われます。どなたでもどうぞお気軽に礼拝にご参加ください。

神戸教会の主日礼拝の様子

<礼拝案内>

主日礼拝
2022年1月16日(日) 午前10時15分より
【降誕節第4主日



説 教
「新しい存在としての招き」
菅根信彦牧師

聖 書
マルコ福音書1章16~30節
詩 編
100篇1~5
讃美歌
21-287、21-504





自宅礼拝用讃美歌 奏楽者:瀬尾千絵姉

 以下の讃美歌番号をクリックすると讃美歌が流れます。お好きな讃美歌をご自宅での礼拝にご活用ください。

21-17 聖なる主の美しさと

21-18 「心を高く上げよ!」

21-24 たたえよ、主の民

21-27 父・子・聖霊の

21-351 聖なる聖なる

21-475 あめなるよろこび

21-463 わが行くみち

21-493 いつくしみ深い

21-494 ガリラヤの風

21-575 球根の中には

「新しい存在としての招き」(1/16)

「二人はすぐに網を捨てて従った」

(マルコ福音書1章18節)

 イエスは福音宣教の働きを進めるにあたり弟子たちを招きます。本日の聖書個所はイエスが「最初の弟子たちを招く物語」です。弟子たちの側からすれば「イエスに従う物語」です。このような「召命物語」はマタイ、マルコ、ルカの共観福音書、さらにヨハネ福音書にも随所に見られます。その中でも、マルコ福音書は極めて動的で簡潔に描かれています。招きを受ける弟子たちの思いを考慮せずにイエスの側からその出来事だけが記されています。
 イエスはガリラヤでの宣教活動開始を告げる言葉として「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(15節)と告げます。その直後の出来事として4人の漁師を弟子として招いた物語が続いていきます。いわゆる「弟子の入門」の物語が置かれています。ここでは、「シモン・ペテロとアンデレ兄弟」と、「ヤコブとヨハネの兄弟」が仕事中、イエスより「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう。」(17節)との招きの言葉を投げかけられます。そして、4人はそのイエスの呼びかけに応えて「網を捨てて」従って行きます。そして、彼らがイエスの最初の弟子となります。
 「わたしについて来なさい」とは、招きというよりも「無条件的要求」とも言えます。「従う」と同義語です。しかも、「なぜイエスが弟子たちを招き」、「なぜ弟子たちがイエスに従ったのか」という一切の理由や説明、両者の関わり合いなど記されていません。ただ、「イエスの招き」があり、その言葉に躊躇なく「ただイエスに従う」弟子の姿だけが記されています。そのため、「なぜ4人の最初の弟子たちは、すんなりとイエスに従い得たのか」という疑問が出てくるのです。
 それに反して、ルカ福音書は弟子たちとイエスとの出会い、さらにイエスの招きに応えていく理由を「通時的」に語ります。「豊漁物語」(ルカ福音書5章1~7節参照)を加えてイエスの圧倒的迫りがあったことを伝えています。しかし、マルコ福音書は「招きと服従」という「出来事性」(共時性)を強調します。イエスに従い生きることの「決意の表明」のような色彩をもって物語が綴られています。
 確かに、イエスの招きに応えるには一つの決断がどうしても必要です。決断は自己の全存在を投げ込むことです。それ故に躊躇を覚えるのです。しかし、それでも第一歩が求められます。イエスに従い行く中でこそ、慈しみに溢れたイエスの赦しの深みを知ることができるからです。イエスの招きに応えることは、信仰の豊かな世界を知る大切な一歩であるのです。

(説教要旨/菅根記)

「真実の言葉を求めて」(1/9)

「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」

(マタイ福音書4章4節)

 イエスは公生涯の開始と同時にバプテスマのヨハネから洗礼を授けられます。そして、イエスは荒野で悪魔から誘惑を受けます。この物語は、マルコ・マタイ・ルカの共観福音書には同じ位置に置かれています。そして、「霊がイエスを荒れ野に送り出した」こと、「40日間」荒れ野に留まったこと、「悪魔から誘惑を受けた」ことの「3要素」は共通しています。
 本日の聖書個所マタイ福音書4章1節以降の物語は、イエスが具体的にどのような誘惑を受けられ、また、どのように対応したかが詳細に描写されています。
 さて、イエスが「霊」に導かれた「荒れ野」は、エルサレムの南東の丘陵地帯から死海に至る50~60キロの地域を指す(『聖書の歴史地理』より)と言われています。「荒れ野」は人を寄せ付けない隔絶した場所であり、同時に、人の精神を高める神との出会いの場として理解されていました。イエスは、そこで人間の持つ3つの欲望(食欲、権力欲、自己保身欲)に対する試みを受けます。
 悪魔は40日間の断食をした空腹のイエスに「神の子なら」(3節・6節)といって迫ってきます。第二の神を試す誘惑においては、「神があなたのために天使たちに命じると・・」と旧約聖書詩編91篇11~12節を引用して神への信頼を巧みに装い語りかけてきます。イエスの「神の国」の宣教活動の志しや召命観をくすぐるような誘惑の仕方をしてきます。人間への誘惑は自分の考え方や生き方に近い所で起因することを示しています。それだけに間違いを起こしやすいもののようです。イエスもまた一人の人間として試みに出会っていることが分かります。
 しかし、イエスは厳しい誘惑に対して旧約聖書の引用をもって跳ね返していきます。世界の王として君臨するのではなく、名誉も地位も求めない一人の仕える人間として歩むことを決断していきます。それは、ガリラヤで苦悩する民衆や打ちひしがれている群衆と共に生きようとするイエスの決断であり神の御心を示す人生の選択となっています。その姿は十字架の死まで貫かれ、「神の御心」を追い求めようとする試みは十字架の死に至るまで続いていきます。
 「我々の人生は選択の連続であり、迷いの連鎖である」といわれています。それは、あるものを身に引き寄せ、あるものを遠ざける、そして、あるものを受け入れ、あるものを拒んでいくものです。特に、人生の節目、重大な局面での選びは人生そのものを決めていきます。そのためにも、常に「神の口から出る言葉」に心を向けて、人生の座標軸を形成することが必要です。今年も神に喜ばれる人生の決断を積み重ねていくために常に聖書の言葉に聞いていきたいと思います。

(説教要旨/菅根記)


前の説教要旨は下の説教題をクリックすると見れます。(前年度のものは「2020年度説教要旨」のリンクにまとめています。)

「心を新たにして」(1/2)
「星の光に導かれ」(12/26)
「神の独り子イエス」(12/19)
「主の道をまっすぐに」(12/12)
「コルバンをめぐる論争」(12/5)
「主を待つ心」(11/28)
「天に富を積むこと」(11/21)
「イエスの眼差し」(11/14)
「涙するイエス」(11/7)
「神による完全」(10/31)
「神の前に豊かに」(10/24)
「十字架の愛によって」(10/17)
神学校日礼拝説教要旨(10/10)
「心の底から新たにされて」(10/3)
「今日リンゴの木を植える」(9/26)
「掴もうとする力を緩めて」(9/19)
「生かされてある恵」(9/12)
「キリストにある交わり」(9/5)
「譬話にある神の愛」(8/29)
「キリストにある交わり」(8/22)
「わかってほしい!」(8/15)
「神存在の遠近」(8/8)
「悔い改めの布告」(8/1)
「罪人を招く主」(7/25)
「憐みの器として」(7/18)
「今や恵みの時」(7/11)
「祈りは聞き届けられる」(7/4)
「心のともし火を絶やさず」(6/27)
「豊かさに満たされて」(6/20)
「命の言葉を保って」(6/13)
「神と向き合う人生」(6/6)
「御心に適って」(5/30)
「霊の導きに従って」(5/23)
「心の目を開いて」(5/16)
「このように祈りなさい」(5/9)
「ただ、イエスを見つめて」(5/2)
「このことを信じるか」(4/25)
「心に深く刻まれる恵み」(4/18)
「今日を新しく生き直す」(4/11)
「わが主よ、わが神よ」(4/4)
 2020年度説教要旨