<説教要旨>

「豊かさに満たされて」(6/20)

「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた

(第二コリント書8章9節)

 本日の箇所第二コリント書8章1~2節においてパウロが最初に示していくのは、先に報告されていたマケドニア州での出来事についての言及です。そこで、マケドニア州の人々が非常な困難や困窮の中にありながら、そのうちにあるあふれ出る喜びによって惜しまずに「慈善の業と奉仕(4節)」に参加したいという申し出があったことを語ります。このマケドニア州の人々の行いを模範として、コリントの人々にも愛を持ってこれに倣ってほしいとパウロは促していくのです。
 コリントの共同体の人々はその教会成立の際には多くが貧しい人々であったといわれております。その中には奴隷もいたと報告されております。しかしそのコリントの人々をさしてパウロは7節で「豊かなのです」と語ります。この豊かさとは、この世的な、経済的な「豊かさ」を示すものではありません。7節では豊かさについて「信仰、言葉、知識、あらゆる熱心、私たちから受ける愛」のすべての点で豊かであると説明されます。この「豊か」とここで訳される単語、原語のギリシア語では「ペリッシュマー」が使われておりますが、これは「祝福」とも訳すことが出来るものです。あるいは「満ちあふれる」となります。コリントの人々の内にあるキリストの愛の業によって与えられたその「豊かさ」、「満ちあふれる」ものは、「祝福」であることがこの単語からも示されています。そしてこの「祝福」とは人から出るものではなく、パウロが9節で語っているように「主イエス・キリストの恵み」によるものであるのです。これは決してこの世的な、パウロ的に語るならば「肉的な」ものではないのです。このあふれ出る恵み、祝福は我が身の内に与えられ、そしてそこからさらに広げられていくべきものであるということが、ここで示され、「慈善の業でも豊かな者になりなさい」と語られるように、この愛に促されて行動していくことによって、この与えられた「祝福」に応えていく者とされていくのです。
 イエスは自らを貧しさに置き、また苦しみの道を歩まれることによって、人々を救いの道に入らせようといたしました。そしてその十字架上での死と、その後の復活によって、その道を示してくださいました。この大いなる恵みは、私たちの心の内に満ち溢れる祝福として、与えられていることを、今日のパウロの勧めからも私たちは知らされています。イエスがそうされたように、私たちもまた、それに倣って豊かさに満たされた心の促しに応えていく歩みを進めてまいりたいと思います。

(説教要旨/髙塚記)