<説教要旨>

「心の目を開いて」(5/16)

「あなたがたはこれらのことの証人となる」

(ルカ福音書24章48節)

 ルカ福音書の復活物語はマルコ・マタイの復活物語とは明確に違う点があります。それは、復活のイエスと弟子たちの邂逅の舞台がエルサレムであることです。本日の前の箇所にはエマオへと向かう二人の弟子がそのエマオへの途上で復活のイエスと出会い、「目が開け(31節)」、復活のイエスとの出会いを経験すると「時を移さず(33節)」とあるように、恐れを捨て、「心が燃える(32節)」思いを抱きエルサレムへと戻っていきます。そこには、他の弟子たちも集まっており、「主の復活(34節)」について語り合っていました。
 弟子たちにとってエルサレムとは、この人についていけば何も問題はないと信頼し、慕い、これまでの生活を投げうってでも従い行こうと思えた存在であるイエスが、その道のなかばと思えるような所で逮捕され、処刑されるという出来事が起こった絶望の土地となっていました。さらには、自分たちもイエスの弟子であるとして、イエスと同じように逮捕され処刑される危険性をはらんだ土地となっていました。しかしその恐れを拭い去る出来事が起こります。それが復活のイエスとの出会いです。この出会いの証言が複数の弟子からもたらされる事によって、弟子たちの心に希望が与えられていったのです。この希望により、絶望の象徴とも言える土地であった、恐れを抱かせる土地であったエルサレムにまた集うことが出来たのであります。
 それでも弟子たちはこの復活の出来事の意味、イエスの生涯において示された福音の意味をすべて理解できていたわけではありません。
 弟子たちが生前のイエスに対して抱いていた希望とは、この世的な解放、例えばローマ支配からの解放であったり、差別の中からの解放であったり、鬱屈した日々からの解放であったりという現在的な希望でありました。だからこそ、イエスが逮捕され処刑された時、弟子たちはそのこの世的な、現在的な希望が打ち砕かれ、絶望にとらわれ、散り散りになっていくしかありませんでした。生前イエスが語られていた「死んで後復活する」との予告も理解せず信じることは出来ませんでした。そのような状態であったために、目の前にイエスが現れても、それがイエスであるなどとはつゆほども思うことが出来なかったのです。
 しかし弟子たちはイエスによってその「心の目を開(45節)」かれて、イエスの生涯について、その教えについてを悟ることが出来るようにされました。この「心の目」とは神に向ける目であります。神を信じ、イエスを信じ、受け入れていく、相互の繋がりとしてあるべき信頼が与えられる場所であります。復活のイエスとの出会いによってそれが開かれて、本当の意味で、根源的希望である救いの約束に与かることが出来た弟子たちは恐れを捨て去り、希望をもってまた立ち上がり歩みを進める事が出来たのです。

(説教要旨/髙塚記)