<説教要旨>

「ただ、イエスを見つめて」(5/2)

「あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる」

(ヨハネ福音書14章7節)

 「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしを信じなさい」(1節)、このイエスの言葉で始まるヨハネ福音書14章1~3節は、日本基督教団口語式文では納棺式の聖書個所として紹介されています。私は、神のもとに召された会員・関係者の逝去の際、先ず病院やご自宅に駆け付け、ご遺族と共にささげる祈りの時にこの聖句を用います。この言葉は、直訳すると「あなたがたの心がかき乱されないように」との意味です。差し迫ったイエスの十字架の死に対して、弟子たちが大きな不安を抱き、動揺をもたらしたときにイエスが語った心強い言葉です。
 特に「わたしを信じなさい」との言葉は、イエスご自身に委ね生きることが許されていることを示しています。実は、このイエスの言葉を含む14章は「最後の晩餐」の席で語られた「告別説教」(13~16章)の一部です。その中でも14章前半部分は「告別説教」全体の頂点部分とも言われています。ここには「信じる」「見る」「知る」「分かる」「真理」「命」「業」「弁護者」など、ヨハネ福音書の思想的特徴を示す言葉が散りばめられています。
 現代に生きる私たちは、心も体もバラバラに引き裂かれるような思いをもって歩んでいます。コロナ禍の中で、様々な自粛が求められる中、親しい者との関係や、友人との出会いが制限され、感染に対する恐れを抱いています。「破局感」と「足場を喪失」の時代と言われています。出口の見えない世界、いわれなき差別や偏見、高まる分断意識など新たな人間疎外を次々と生み出す時代状況があります。そのような現状の中で「心を騒がせるな」とのイエスの言葉は「はっと」我に返る響きをもっています。
 さらに、イエスは動揺する弟子たちに対して「わたしは道であり、真理であり、命である」(6節)と、ご自身の存在意義を語ります。ヨハネ福音書独特の「自己啓示」(7つの「わたしは○○である」との表現)の一つです。特に、「道」は目的地に至る通路としての意味と、目的地そのものを指します。すなわち、生き方そのものを「道」と言います。クリスチャンが「この道を行く者」と言う意味があるように、イエスが歩んだ道に従うことが促される言葉です。
 しかも、イエスは神との一体関係のように「わたしを知る」、「わたしを見る」ことこそ、父なる「神を知ること」、「見る」ことであると伝えます。神のみ旨・意志を共同する存在としての御子であることを伝えます。同時に、人を神と結びつけ、執り成す方としての「仲保者」イエスが強調されています。私たちは迷わず、ただ、愛の人イエスを見つめ、イエスの歩んだその「道」を踏みしめて歩んでいきたいと思います。

(説教要旨/菅根記)