<説教要旨>

「わが主よ、わが神よ」(4/4)

「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」

(ヨハネ福音書20章29節)

 ヨハネ福音書の復活物語を読んでいきますと、イエスの十字架での処刑という最後の場面を迎えた時、弟子たちは散らされ、意気消沈して部屋の中で隠れるように「魂を閉ざして」いった様子が描写されています。しかし、同時に、「魂を閉ざした」弟子たちが、確かにイエス復活の出来事を契機に再び立ち上がっていく様子も描かれています。もちろん、弟子たちの再起は一度になされたのではなく、「信じては疑い、疑っては信じる」という一進一退の歩み(21章の付加文章参照)であったことを告げています。
 本日の聖書個所は、「週の初めの日の夕方」に復活したイエスが「ユダヤ人を恐れて」(19節)隠れていた弟子たちに現れる「イエス顕現物語」です。「魂が閉ざされていた」弟子たちに、イエス自らが家に入り「あなたがたに平和があるように」(19節・20節)と励まします。また「私はあなたがたを遣わす」(21節)と命の息を吹きかけて派遣命令を出します。さらに、その場にいなかったディディモ(双子の意味)と呼ばれるトマスは、イエスの十字架の傷痕に自分の指を入れなければ、復活したイエスを「わたしは決して信じない」(25節)と言い張ります。そこに、再びイエスが現れ傷痕を見せます。そのイエスの働きかけに、はじめて「わたしの主、わたしの神」との告白に至るのです。
 芸術家で詩人の高村光太郎は、このトマスの物語を題材に「蝕知」という詩を残しています。「ある男は/イエスの懐に手を入れて/二つの創痕をなでてみた。/一人の頑な彫刻家は/万象をおのれ自身の指で触れてみる。/水を裂いて中をのぞき/天を割って入り込もうとする/本当に君をつかまえてから/初めて君を思う。」高村の真実を追い求めていこうとする実証主義的な思いがこの詩に見られますが、トマスも同じ思いであったのでしょう。
 しかし、ヨハネ福音書は「見ないのに信じる人は、幸いである」と明言し、本書の最後の言葉とします。この言葉は、見える現実だけが神の愛や慈しみを表すものではないことを強調します。そもそも、「人格」や「人間性」というパーソナリティーは本来見えないものです。しかし、人はある存在、その人格の大きさや深みに支えられて、時に期待されて、私たちはその人を信じて生きることができるのです。人格的な存在は「深み」をもつのです。神の存在は人間にとって究め尽くすことのできない深みで、人はその深みに支えられて、実は信じるということが始まっていくのです。深みの次元でイエスに出会うことこそが復活に生きることであるのです。

(説教要旨/菅根記)