<説教要旨>

「命の言葉を聞いて」(5/4)

「イエスはお答えになった。『よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、  預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。』」

(マタイによる福音書12章39節)

 
今朝のテキストの冒頭には、「しるし」を求める律法学者とファリサイ派の人々と、それを拒絶するイエスの姿が描かれています。
「ユダヤ人はしるしを求め」(第一コリント1:22)と言われている通りですが、これらの「しるし」とは、イエスが神の子であることの保証を意味しています。
「しるし」を求める人々を、イエスは拒みます。マタイ16:1以下でも、ファリサイ派やサドカイ派の人々が「天からのしるしを見せてほしい」と願い出ますが、今日のテキストとほぼ同じ言葉で、それを退けています。
律法学者たちの求めを退けつつも、イエスは「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」と述べ、「しるし」が与えられることに注意を促します。
十二小預言書の一つであるヨナ書は、預言者として神様に選ばれたヨナが、はじめはその使命を担うことを望まず、背中を向けて逃げ出してしまうところが描かれています。その途中で、乗った船が嵐に遭って難破し、ヨナは大魚に飲み込まれて、三日三晩を腹の中で過ごすことになります。「ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように」(12:40)というのはそのことを指しています。ヨナは悔い改めてニネヴェの町で預言の言葉を語り、神様から与えられた使命を果たしました。
イエスは「人の子も三日三晩、大地の中にいることになる」と続けています。イエスが十字架につけられて死に、三日後に復活するという出来事が、これから起こることになりますが、ヨナの物語の中に、イエス死と復活について、あらかじめ示されていることにます。この神様の愛のあらわれを、イエスは 「ヨナのしるし」と呼んでいるのです。 イエスは、ヨナの働きを受けて悔い改めたニネヴェの人々や、ソロモン王を訪ねてはるばるやって来た南の国の女王(列王記10:1以下に登場するシェバの女王)を引き合いに出し、「しるし」がなくても、神様の知恵や言葉を頼りに、神様に立ち返ることの大切さを説いています。旧約聖書の時代の人々でも、神様に立ち返ることができたことを述べ、この時、この場に「ヨナにまさるもの」、「ソロモンにまさるもの」があることを、イエスは律法学者たちに示そうとしたのです。 イエスの言葉は、時間や空間の隔たりを超えて、今を生きるわたしたちにも届いています。わたしたちの心にも、人生の保証としての「しるし」を求める弱さがあります。それは真摯な願いでもあります。それでも、命の言葉を通して励ましを受けて、新しい命のうちに生かされていることに気付き、感謝して歩むことができますようにと願っています。

(本日説教要旨/大垣記)