<説教要旨>
「神の独り子イエス」(12/19)
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」
(ヨハネ福音書3章16節)
今年も教会員の家族、付属幼稚園の園児の家庭から「新しい命」が生まれました。そして、親御さんたちは祈りを込めてその生まれてきた子に名前を付けます。福音書の降誕の物語では独りの男の子に名前が付けられました。そこには、私たちに対する神の思いが示されるように「イエス」(主は救いであるの意味)と名付けられたことが記されています。マタイ福音書はイザヤ書7章14節を引用して、「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」と書き記しています。そして、「インマヌエル」の意味を「神は我々と共におられる」と説明しています。
今日の聖書の個所であるヨハネ福音書は、マルコ福音書同様にイエスの降誕物語はありません。しかし、イエスがこの世に「出現した」「与えられた」、あるいは、「遣わされた」意味を端的に示した個所があります。それこそ「福音」の内容を豊かに示す個所があります。それが上記の3章16節のイエスの言葉です。
このイエスの語る「世を愛する」というメッセージは、ヨハネ福音書の全体を貫いている根本的な主題となっています。「この世」は、神の愛の業が示される場所であるというだけでなく、「この世」そのものが神の愛の対象として捉えられています。「この世」(コスモス)とは、人間の生きる世界であり、人間自体を指しています。実際には、その世界は暗い覆いがかけられ、憎悪と不信が渦巻く闇のような現実があります。しかし、なお神はこの現実世界(人間)を愛し、独り子イエスを「与えた」とヨハネ福音書は語ります。
「与える」とは「贈物として与える」との意味です。しかも、「価なし」にです。無償で私たちに提供される神の「高価な恵」(ボンヘッファーの言葉)なのです。また、同時に「与える」は「死に渡す」という意味もあります。使徒パウロはこの視点を明瞭にして、神の愛は独り子イエスを十字架の死に「引き渡す」(ローマ4章25節・5章8節・8章32節)ことにおいて示されたことを強調します。このように、「高価な賜物」は神の側から見れば大変な犠牲を意味しているのです。クリスマスの出来事は「飼い葉桶から十字架へ」と言われるように、御子イエスの降誕の喜びは、その初めから十字架の出来事を内包しています。ここに「愛する」ということの深い意味があります。また、イエスの生涯と死を凝視することの重要性を示しています。
ヨハネ福音書にとって「信じる」とは、闇そのものでしかない自分の姿をうつし出されながら、なお光であるキリスト・イエスに向かって生き方を転換することです。その決断の中に救いがあることを私たちに示しています。クリスマスを神の真実な愛を受けとめ直す時として迎えたいと思います。
(説教要旨/菅根記)