<説教要旨>

「十字架の愛によって」(10/17)

「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。」

(ローマ書7章24節)

 第二次世界大戦中、ナチス・ドイツの強制収容所の中で生き抜いたビィクトール・フランクルは人間の存在について、彼の著書『精神医学的人間像』の中でこのような言葉を残しています。人間は第一に「工作人」(世界の管理者の意味)、第二「愛する人間」であり、第三に「苦しむ人間」であると、語っています。つまり、人は、世界の管理者であり、愛の共同体の主体であると共に、人生の苦しみを担うことで、歴史を担っていく存在であると指摘しています。彼もまた、歴史に翻弄されながらも、人間は「愛し愛される存在」であると同時に「苦しみを生きる存在」でもあることを訴えています。つまり、人は自らの終わりを含めて、何かしらの苦悩や葛藤をもって生きる存在であることを示しています。
 パウロは、使徒言行録によれば、ローマ帝国の属州キリキア州の首都であったタルソ(現在のトルコ南東部の沿岸地帯)で生まれます。ディアスポラの(離散した)ユダヤ人家庭で育ち、自らを「ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人」「律法に関してはファリサイ派の一員」「律法の義については非のうちどころのない者」(フィリピ3章5~6節)であったと語っています。紀元33年頃、ダマスコ途上で復活のキリストに出会う経験をします。キリスト教徒への迫害者が、キリスト・イエスの伝道者へと回心を迫られます。
 本日のローマの信徒への手紙7章は、パウロがユダヤ教の律法の価値基準の中で必死に生きようとした経験と、キリストに捉えられ律法支配から解放された経験を踏まえて、人間というものが神の前でどんな矛盾を抱えた存在であるかを語るところです。パウロは自分を見つめて「善をなそうと思う自分には、いつも悪がつきまとう法則に気づきます」(21節)と指摘するように、「罪」のもとに喘ぐ自分の苦悩を語ります「何と惨めな存在か」と絶望の声すら挙げています。
 パウロはこの苦悩を信仰の本質に関わる問題として見据えています。そして、自分の破れし姿、隣人を愛せない自己本位の現実を認め、「死に定められたこの体」を救ってくださる方こそ、キリスト・イエスであることを証しします。イエスの十字架の死によって贖われ、赦されたその神の慈しみとイエスの十字架の愛に生かされて生きることを選び取り生涯にわたって自分の全てをイエスに委ねていくのです。
 常に的を外して生きる私たち、自己中心的にしか生きられない私たちが十字架の福音を自明なこととせず、驚きと感謝をもって受けとめ直していきたいと思います。

(説教要旨/菅根記)