<説教要旨>

「共に生きる」(10/10)

「行って、あなたも同じようにしなさい」

(ルカ福音書10章37節)

 今回の聖書個所は、善いサマリア人の譬えの話です。この譬え話は、律法学者がイエスに永遠の生命を受け継ぐ道についての質問から、始まります。追い剥ぎにあって倒れているユダヤ人のところに、祭司とレビ人が順番に通りかかります。しかしユダヤ人をみると道の向こう側にいきます。そこにサマリア人が通ると、ユダヤ人に対して憐れに思い介抱をします。祭司とレビ人が、助けられなかった理由は、律法の枠組みの中で、自分を中心とした働きしかできなかったからです。一方サマリア人は、また自分も襲われる危険性がある中で、自分自身の生活や経済や法治や宗教などの垣根を超えて、損得を考えずに自分を中心とするのではなく、倒れているユダヤ人を中心とした働きをしました。つまりこれが隣人になるということです。この譬え話を終えたあと、イエスは「誰が隣人になったか」と逆質問します。律法学者は、「その人を助けた人です」といいます。そして、イエスは「行って、あなたも同じようにしなさい」とこう語るこのイエスの言葉は、律法という枠組にいても、枠組みを一歩破ることで、あなたもその人の隣人になれるというイエスの福音が示されています。私たちも、日常の枠組み中で、一歩超えた働きをして、共に生きる喜びを味わいつつ歩んでいきたいと思います。

(奨励要旨/菅根謙治記)

「神の招きと派遣」(10/10)

「十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた」

(マルコ福音書6章7節)

 教会はギリシア語でエクレシアといいます。これは、キリスト・イエスによって「召し集められた共同体」との意味です。教会はイエスの名によって集まり、神を礼拝する群れです。そして、同時に、ただ、集められることで終わるのでなく、この社会にみ言葉をもって遣わされる使命をもっています。教会を教会足らしめる聖霊の働きは「集める霊」であり「派遣する霊」です。そこには信徒と教職との区別はありません。
 本日の聖書個所はイエスによる「12弟子たちの派遣の物語」です。イエスは、不完全で破れ多き弟子たちを招き、この世に派遣します。しかも「二人ずつ組にして」(7節)、そして「杖一本のほか何ももたず」出発させます。まるで、互いの欠けを補い合いつつ派遣されていく姿に見えます。 
 イエスが命じる宣教の働き(伝道・教育・奉仕)は一人の優れた賜物(カリスマ)、人間の資質や能力でなされるのではなく、弱さを抱えた者の共同の歩みから始まることを示されます。また、「杖一本のほか何も」とあるように、頼るものを持たず、イエスの言葉だけを信頼して励むことが求められています。欠け多きものによって、その弱さを通して神の御業が示されていくのです。
 「神が人間の宣教という不完全な方法を用いるのは、そのことを通して、人間と人間が結ばれ、教会が生まれるためである。」(カルヴァン)との言葉に望みをかけて、この世に遣わされていきたいと存じます。

(説教要旨/菅根記)