<9月説教要旨>

「土の器の中に」(9/27)

「わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。」

(コリント第二4章7節)

 「土の器」という言葉から、私たちはどのようなイメージをもつでしょうか。自分を「土の器」であると見立てることは、欠点を持ち、弱さを抱えた自分の人間性を示すと言われています。強そうに見えても壊れやすい、そのような人間の限界性や、人間の不完全さを示す言葉です。あるいは、もっと深く自己懺悔の心が混じるような言葉とも言えます。この「土の器」のイメージは、旧約時代に遡ると考えられています。創世神話のように人間の被造性を表している代表的な言葉であると言えます。
 フランス文学者であった森有正さんは、このパウロの「土の器」という言葉を大変好まれた一人です。『土の器の中に』という講演集があります。彼は「わたしはこの言葉が好きだ。この土の器をいうことを考えるとき私は心が清められる思いがします」、「すべて、この世に生きる人間は、自分に対する信頼をもって生きている。そこに生き甲斐というものを感じています。けれども、ここには、それとは全然違う一つの人生というものができている。人間が自分は神に造られた「土の器」であり、土から造られ、土に帰るものであるとわかるとき、実にこの人生というものが、本当の意味で、透明になり、また単純になり、しかし、限りなく深くなる」と。この指摘の中には、人間の被造性、有限性、壊れやすさ、弱さ、そのことに気付いていくことの大切さ、あるいは、本当の意味で人生の深みに到達できる思いが込められているようです。
 パウロはおそらく、同様に「土の器」との自己理解をもつことにより、生かされてある存在としての自分を深く見つめることができたのでしょう。憐れみにより生かされているという自己理解故に、彼はどんな状況の中でも「行き詰まらない」「失望しない」「見捨てられず」「滅ぼされない」(8~9節)との確信をもって使命に邁進します。
 人は、自分の能力や業績に自分の誇りを置く時、そして、その力を失う時、動揺や不安を覚えるものです。しかし、神の憐れみによって生かされていることに気付く者は、むしろ、自分の弱さや破れの故に、そこにこそ神の恵が溢れていくことを知らされていきます。そこに、森有正が指摘するように、「人生が透明になり、単純になり、深みに触れていく」のかも知れません。
 しかもパウロは「わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています。イエスの命がこの体に現われるために」(10節)と自身の「土の器」にイエスの生と死が宿ると語ります。イエスの生と死をこの身に受けるというのです。それこそが、かけがえのない宝であり、イエスと共に復活の命に与らせてくれるとの希望を語ります。「自分が」「自分が」と「土の器」に覆いを掛けることなく、イエスの命が現われる生き方を求めていきたいと思います。 

(説教要旨/菅根記)

「羊の名を呼ぶ」(9/20)

「羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。」

(ヨハネ福音書10章3節)

 「わたしは命のパンである(6章48節)」「わたしは世の光である(8章12節)」「わたしは羊の門である。(10章7節)」「わたしは良い羊飼いである。(14節)」「わたしは道であり、真理であり、命である。(14章6節)」「わたしはまことのぶどうの木(15章1節)」。これらはすべてヨハネ福音書に記されるイエスが自身について語られた言葉であります。「イエスは何者なのか」。この疑問は他の福音書においても取り上げられているものでありますが、このヨハネ福音書においては、上記に示したように、特に注目を持って取り上げられていることがわかります。これらは「わたしは・・・である」式の象徴語句であり、この文言に続くようにたいていの場合「象徴説話」と呼ばれるたとえが語られます。このような、形式はヨハネ福音書独自のものであり、他の福音書には見られません。
 本日の箇所もこの「象徴説話」が記され、その後の箇所に「わたしは・・・である」式象徴語句が記されます。ここでイエスは、「羊の囲い」のたとえを語られます。このたとえでは「囲い」「門(1節)」「盗人」「強盗(2節)」「羊飼い」「羊(3節)」という特徴的な事柄が語られ、それぞれの役割やありようが示されていきます。このたとえ話によって示されることは、イエスがまことの啓示者であるということです。そしてまた、イエスと対照的に、救いに入ることを妨げていくような存在があることが示されます。「羊の囲いに入るのに、門を通らないで他のところを乗り越えて来る(1節)」者たちとして記される「盗人」や「強盗」です。この「盗人」や「強盗」とは、囲いの中から羊を盗み出していく存在であり、これは、神の救いに至る道とは違う道へと連れ出そうとする存在として示されております。しかし、イエスは「門から入るものが羊飼いである。(3節)」と語り、正しく導く者の存在を示し、また、「羊はその声を聞き分け(3節)」そして、「ほかの者にはついて行かず、逃げ去る(5節)」と示されるように、まことの啓示者である、イエスに従う人々が誤った道に進まず、正しく導かれていく様が語られていきます。このたとえの後でイエスは「わたしは羊の門」であり「良い羊飼いである」と語られます。イエスを通ることによって正しき道に進まされることと、また、イエスによってその道に導かれていくことが明かされているのです。
 この象徴説話と「わたしは・・・である」式象徴語句は特徴として、イエスによる招きと約束が語られます。イエスが招く「門」を通り、その「名を呼ばれる」招きの声に従い、歩んでいくことによって、招きと応答の相互関係によって救いが約束されているのです。    

(説教要旨/髙塚記)

「創造主にゆだねる」(9/13)

「神の御心によって苦しみを受ける人は、善い行いをし続けて、真実であられる創造主に自分の魂をゆだねなさい」

(ペトロ第一4章19節)

 ペトロ第一の手紙は、通常「公同書簡」(ペテロ第一・第二、ヤコブ、ユダ、ヨハネ第一・第二・第三の7通の手紙)と呼ばれてきました。この呼び方には「公同の教会」(エクレシア・カトリカ)全般に対する「普遍的な」手紙という意味が込められていました。しかし、それぞれの手紙は特定の歴史と地域に生きている教会に発信されていて、扱う主題は個別の教会共同体の課題に対する勧告となっています。ペトロ第一の手紙では、ポントス、ガラテヤ、カパドキアなどに在住する離散したユダヤ人(ディアスポラ)たちに宛てられた手紙であることが分かります。
 本書はペトロの名前を使って書かれた手紙ですが、優れたギリシア語で記されていることからも、おそらく、ペトロの生前に関わった弟子集団から生まれた文書であると考えられます。また、本日の個所に出てくる「身にふりかかる火の粉」(12節)、「キリスト者として苦しみを受けるなら」(16節)との迫害の記述があることから、紀元90年頃、ローマ帝国の組織的迫害が始まる頃の手紙ではないかと言われています。その迫害の中で、いかに処するべきか迷っている信徒に、キリスト者として生きるべき道を教え励ましを与える実践的な手紙です。
 今回は上記の「創造主に自分の魂をゆだねなさい」(19節)との言葉に注目していきたいと思います。神が「創造主」という表現は、使徒信条の冒頭に「我は天地の造り主、全能の父なる神を信じる」と告白されているように、聖書では自明なことですが新約聖書ではここだけに出てくる言葉です。また、「ゆだねる」という言葉は、ルカ福音書の描くイエスの十字架の死の描写の中で、最後の言葉である「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」(23章46節)と同じ言葉です。イエスは受難の極みの中で、あるいは孤独と不安と絶望の中で、神の御手にゆだねていきます。大いなる他者に自分を託していこうとします。イエスは自分の心と体と魂の全存在を受け留めてくださる方の救いの御手を信じてゆだねていきます。
 ゆだねるとの言葉は、旧讃美歌の291番「主にまかせよ」(ドイツ的民謡。原作者はヨハン・フリードリヒ・レーダー.1945年/訳者は由木康)を思い出させます。この歌は原作者の人生の失敗や不安があった中で生まれた詩だと言われています。主にゆだねるべきことを自分の魂に向けて語る詩篇の趣がある讃美歌です。(主にまかせよ、汝が身を、/主はよろこびたすけまさん。/しのびて春を待て、/雪はとけて花は咲かん。/あらしにもやみにも/ただまかせよ、汝が身を。)閉塞する時代、行き詰りを感じる人生の中で、なお一つの道が残されていることを示されます。

(説教要旨/菅根記)


「最高の道」(9/6)

「神の御心によって苦しみを受ける人は、善い行いをし続けて、真実であられる創造主に自分の魂をゆだねなさい」

(ペトロ第一4章19節)

 「愛の賛歌」と言われているコリント第一の手紙13章は偉大なテキストです。キリスト教主義学校では、必ず読まれ教えられる聖句の一つです。もちろん、結婚式の誓約の前に必ず朗読される聖書個所でもあります。この個所では、聖書の中心である愛(アガペー)が語られ、しかも、12章から始まる「霊的な賜物」についての言及の中で、教会における多様な働きが示された後に、「大きな賜物」である愛を求めるように勧められています。
 この手紙の執筆者である使徒パウロは「そこで、あなたがたに最高の道を教えます」(12章31節b)と語り始め、多様な賜物も愛がなければ意味が無くなることを指摘します。しかも、その愛とは親切とか、優しさという類ではなく、「自分の全財産を貧しい人に施しても」「わが身を死に引き渡そうとしても」それは愛ではないと語るように、慈しみに溢れたキリスト・イエスの愛を抱くことを訴えています。
 愛には古代から一般的に用いられてきた「エロース」という言葉があります。これは、「真・善・美」などの価値あるものに自然と心がひきつけられるものです。音楽、文学、芸術をはじめ趣味も含めて、価値追及的な愛、人間の生来の愛を示すものと言われています。あるいは、家族愛、友愛、同胞愛を示す「フィリア」もあります。しかし、パウロの語るアガペーの愛は、価値なく貧しき弱いものを尊ぶもののようです。
 スイスのプロテスタント神学者であったE・ブルンナー(1889年~1966年)は『信仰・希望・愛』の著作の中で「アガペーは徹頭徹尾『・・のゆえに』でなく、『・・にもかかわらず』の愛であると。価値を求める愛ではなく、価値を与える愛である」と、この聖句である愛について語っています。まさに、この愛の求めかたこそが神から示された新しい「最高の道」であると語ります。
 イエスはヨハネ福音書でご自身のことを「わたしは道であり、真理であり、命である」(14章6節)と自己啓示をしています。「道」は、見たり、眺めるためにあるものではなく、その上を通って行く、歩くためにあるのです。イエスに従う生活の全体が、生きる姿勢そのものが道なのです。まさに、イエスこそが愛の道の先導者であり、道そのものであるのです。イエスご自身が十字架の死によって示した神の愛こそが私たちの人生を照らす灯であり、人生の指針であり、道標として私たちを導いていくのです。詩編の詩人が「あなたの御言葉は、わたしの道の光、わたしの歩みを照らす灯」(119編105節)と語るように、「最高の道」を見失わずに歩んでいきたいと思います。

(説教要旨/菅根記)