<説教要旨>

「愛を生きる」(1/31)

「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」

(マタイ福音書5章17節)

 今回、説教の奉仕に用いられますこと感謝しつつ、今回の聖書日課からメッセージを共に聴きたいと思います。先週、幸いのメッセージを聴いたのは弟子達と群衆ですが、4章24節では「イエスの評判がシリア中に広まった。人々がイエスのところへ、いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人を連れて来たので、これらの人々をいやされた。」とあります。イエスによって、慰め励まされ無条件で受け入れられた群衆でした。
 しかしイエスは、律法は大切だ、徹底的に遵守することが大切だ、また律法学者やファリサイ派の人々の義に優る生き方が大切だと、民衆を威嚇する姿勢を思わされます。17節の「律法や預言者を完成するためである。」との言葉が重要です。マタイの教会には、ユダヤ教正統派を自負する者と同時に、他方キリストの到来で律法は既に廃棄されたとする者がいましたが、それが今朝の背景です。ユダヤ人が律法と言う時、口伝律法、当時律法学者が大切にした細かな律法です。十戒は大原則です。その大原則から日常に必要な細かな法則・規則を考え出すのが律法学者の仕事でした。安息日を心に留め、聖別せよ、これが大原則。しかし律法学者は働くとは何か、荷物とは何かと細かく規定を決めています。イエスは、この様な法則・規則を不滅だと考えておられたのではありません。
 17節の「律法と預言者」との言葉は山上の説教の始めと、その結び(7:12)に出て来ます。そして『人にしてもらいたいと思うことは、何でもあなたがたも人にしなさい。』との黄金律で閉じています。つまり旧約聖書の教えはこの愛の戒めに収斂すると言うのです。その言葉には他者・隣人との出会いが起こる愛が言外に語られています。
 この「人にしてもらいたいと思うこと」と言う究極な思いとは、私を見捨てないで、大切な人として認めて、私も一人の人間として生きたいのですとの思いだと思います。そのような現実に、主イエスの呼び掛けを大切に、隣人との出会いに招かれていることを信じたいと思います。

(説教要旨/阿部記)

「貧しさと悲しみと」(1/24)

「貧しい人々は、幸いである。神の国はあなたがたのものである。」

(ルカ福音書6章20節)

 今回の聖書箇所、ルカによる福音書6章20節からで語られるイエスの説教は、「平野の説教」、マタイの並行箇所で言えば「山上の説教」として知られる有名な箇所です。そして、さらに本日の箇所である20~26節の言葉はその中でも大変有名な「至福の教え」と呼ばれる箇所です。そして、ここで語られる逆説的な教えは、まさにイエスの思想を色濃く示しているものであると言えます。「貧しい人々」「飢えている人々」「泣いている人々」「憎まれ、追い出され、ののしられ」ている人々。本来であれば、「不幸」であると捉えられるそんな人々をさしてイエスは「幸いである」と語っております。この箇所を初めて読むときこの言葉を素直に受けることが出来ず困惑してしまう事かと思います。なぜ「貧しいこと」、「飢えていること」、「悲しんでいること」が「幸い」になるのか。どうしてそんな事が言えるのか問わずにはいられません。
 この箇所について神学者である田川健三氏はその著書『イエスという男』の中で次のように触れています。「周囲の人々が貧しさから来る栄養失調で容易に病気にかかり、多く死んでいくような中で生きているアフリカの神学校の学生にたずねてみた。「諸君は聖書を信じているというが、本当に貧しい者は幸いだと思っているのか。」彼らはげらげら笑って相手にもしてくれなかった」。私たちはこの現代の日本という国に暮らしている中で、本当の「貧しさ」というのものを実感することは中々ないのではないでしょうか。そのわたしたちが聞く「貧しい人々は幸いである」という言葉と、本当の「貧しさ」の中にある人々が聞く言葉とはその受ける印象も、受けるメッセージも違ったものになるのではないでしょうか。
 イエスはその生涯をもって貧しくされる人々、差別を受ける人々、縮こまり、うずくまってしまうような人々のそばにいました。そのイエスの立ち位置というのは、その人々をただ助ける、施しをするというものではありませんでした。隣に立ち、歩き、共に座り、共に語り、共に食事をする。そして、その人々の苦しみ、悲しみ、また、喜び、楽しみをもすべて共有されて、同じ立場にあってその言葉を語っていかれました。苦しい中にある、悲しい中にある、立ち上がれないような思いの中にある。それでもそこにイエスは共におられて、「大丈夫」「希望はある」「あなたは見捨てられていない」と語り、励ましてくださるのです。
 本当の苦しみ、悲しみ、貧しさを知ってくださっているイエスだからこそ語ることが出来たこの「幸い」の言葉。励ましの言葉。これを受けて、苦しい中でも希望をもって歩みを進めて生きたいと思います。

(説教要旨/髙塚記)

「ただ、主イエスに従う」(1/17)

「イエスは『わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう』と言われた。」

(マタイ福音書4章19節)

 今回の聖書個所はイエスが「弟子たちを招く物語」です。弟子たちの側からすれば「イエスに従う物語」です。イエスを信じ、従っていくという単純な物語の展開となっています。このような召命物語はマタイ、マルコ、ルカの共観福音書、さらにヨハネ福音書にも随所に見られます。特にマタイ福音書は弟子たることの意味や覚悟を多方面から問うような物語が幾つもあります。
 イエスがガリラヤで宣教活動を開始した時の第一声は「悔い改めよ。天の国は近づいた」(4章17節)という宣言でした。その直後の出来事として4人の漁師を弟子として招く物語が続いています。いわゆる「弟子の入門」の物語です。ここでは、2組の兄弟、シモン・ペトロとアンデレ兄弟と、ヤコブとヨハネの兄弟が仕事中、イエスより「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう。」(19節)との招きの言葉を投げかけられます。そして、4人はそのイエスの呼びかけに応えて「網を捨てて」従って行きます。そして、彼らがイエスの最初の弟子となります。
 「わたしについて来なさい」とは、招きというよりも「無条件的要求」と言えます。「従う」と同義語です。特に、イエスに最初に呼びかけられたペトロは、「ペトロと呼ばれるシモン」と紹介され、マタイの教会では彼が親しまれ、既に特別な存在となっていたことを示しています。そのことは、後のペトロの「キリスト告白」(16章17〜19節)に対するイエスの「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上に教会を建てる。・・わたしはあなたに天の国の鍵を授ける」との言葉からも理解できます。12弟子のリスト(10章2〜4節)にはペトロは弟子の代表的存在として冒頭に上げられています。
 しかし、他方ではペトロの人間としての弱さがしばしば描写されています。上述の「天国の鍵」発言の直後に、ペトロは「サタンよ、引き下がれ」(16章23節)とイエスに激しく叱責されます。また、ゲッセマネの祈りの際、3度も居眠りをしてしまったのもペトロをはじめとする最初の弟子たちでした。さらに、逮捕後に鶏が鳴く前に3度「そんな人は知らない」とイエスを拒んだのは、「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」と明言した直後のペトロ自身でした。そこには、従い切れない弟子の姿とそれを分かって弟子として招くイエスの緩みある人格性を見ることができます。
 イエスの招きに応えるには一つの決断がどうしても必要です。確かに決断は自己の全存在を投げ込むことです。しかし、それは同時に、慈しみに溢れたイエスの赦しの深みを知ることでもあるのです。イエスの招きに応えることは、信仰の豊かな世界を知る大切な一歩であるのです。


(説教要旨/菅根記)

「イエスの選び」(1/10)

「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」

(マタイ福音書3章15節)

 私たちは日々何かしらの選択をして生きています。あるものを選びとり、あるものを退けて折々に決断して生きています。その意味では「人生は選びの連続」です。フランスの哲学者・作家のシモーヌ・ド・ボーヴォワール(1908年~1986年)は、「一つの目的のために行動すること。それは常に選ぶことであり、限定することである」(『人間について』より)と指摘しています。人生の選択は、選べるという「自由」と同時に、自己を「限定」して生きなければならないということです。場合によっては、やり直しがきかないような場合にも出くわします。人生の重大な岐路に立つときそれでも私たちは悩み迷いながら決断をしていきます。
 聖書は、人生を選びとっていくための座標軸を「神あり」との神信頼の中で社会や歴史を見ていくこと、そしてその視点から人間の決断を促しています。神のみ旨を求める選択と言ってもよいでしょう。そして、イエスの生涯はまさに神の御旨を求める歩みであったことが分かります。
 さて、今日の聖書個所は「イエスの受洗物語」です。「洗礼」(バプテスマ)は、キリスト教会の成立から今日まで大切な教会の「聖礼典」(サクラメント)として、また、「入信の儀式」として継承されてきています。イエスは宣教活動を開始する「公生涯」の前に、行ったことが二つあります。一つが洗礼を授けてもらったこと。二つ目が「荒野の誘惑」を受けたことです。これらの行為は宣教活動開始の準備と言えます。同時に、イエスは人間として私たちと同一線上に生きることを決意した物語であると受けとめることができます。
 イエスはバプテスマのヨハネのもとに洗礼を願いでます。イエスの先駆者であったヨハネは、イエスに洗礼を施すことを躊躇しますが、上記の15節の言葉通り洗礼を授けることになります。このイエスの洗礼の選択は、「神への服従」の出来事の徴であったと理解することができます。また、進んで罪多き私たち、名もなき民衆の中に生きようとしたイエスの決意とみることができます。「世を愛された神のみ旨」を受けて、イエスもまた神の御旨に沿おうとする決意の表れであったと受け取ることができます。神学者カール・バルトは「神はイエス・キリストにおいて永遠に罪人と共にあることを決意された」とこの物語の意味を伝えています。そして、「これはわたしの愛する子。わたしの心に適う者」と神はその出来事を祝福します。まさに、神のみ旨と御子イエスの意志が呼応する第一幕となっています。
 私たちが人生の選択をなす時、「神共にいます」との座標軸をもって、時に適った相応しい選びを決断していきたいと思います。     


(説教要旨/菅根記)

「揺るぎない希望」(1/3)

「わたしたちは神に希望をかけています。」

(コリント第二1章10節)

 主の年2021年を迎えました。コロナ禍は続きますが皆様のご健康が守られ、主のみ言葉に生かされた歩みとなりますようにお祈りいたします。
 本日の聖書日課はコリント第二の手紙の冒頭部分の箇所です。この手紙の執筆者であるパウロにとってはコリント教会は悩みの尽きない存在でした。コリント第一の手紙を読めば、そこには「分派問題」があり、「霊的熱狂主義者の問題」「偶像崇拝の問題」などがあり、日常生活(性や食)や「宗教生活」(礼拝・賜物・募金復活理解)などの諸問題に言及し助言してる様子から、教会形成を巡る様々な課題が横たわっていたことが分かります。特に、パウロの使徒職を巡っての論敵からの批判に対しては、繰り返し弁明を行っています。
 この第二の手紙は、エフェソに戻ったパウロがテトスに「涙の書簡」(2章9節・7章8節以下参照)を持たせて派遣させ、テトスからコリント教会の現状報告を受けた後に書かれたものです。コリント教会への感謝と挨拶と祝福の言葉を記した後に、パウロは序論(3~11節)を書き始めます。しかも「主イエス・キリストの父である神、慈愛に満ちた父、慰めを豊かにくださる神はほめたたえられますように」と、通常の手紙で用いる「感謝」でなく「ほめたたえる」という表現を用いています。後期ユダヤ教の礼拝で用いられた「十八の祝祷」の冒頭の言葉を使っています。旧約聖書に連なる慈愛の神である一貫性を強調すると同時に、後に続く「苦難の中にある慰め」について述べる前段階となっています。
 この個所の前半では、パウロは彼の受けた「苦しみと慰め」をコリントの信徒が受ける「苦しみと慰め」と結びつけ(3~7節)、後半ではパウロの受けた一つのある特定な苦しみを伝え、そこから解き放たれた出来事(8~11節)を語っています。そこには、厳しい状況にある初代教会の教会形成する上での宣教的苦難とキリストが身に負ったメシア的苦難を結びつけ、なお、慈愛に満ちた神がその状況から慰めを与え、救ってくださることを示しています。信仰共同体の苦難と喜びの共有性を表しています。特に、パウロ自身が「被った苦難」(8節)が何の出来事を指すのか定かではありませんが、自分が受けた慰めは「死から得た命」であることを伝えています。
 パウロは苦難を通して与えられる救いを確信して、その希望を慈愛と慰めの神においています。それは揺るぎない希望であることを語ります。現在、私たちは収束が見えない感染症との闘いと共存が求められる不安な状況の中にいます。主イエスの前に共に集められた意味を覚えて、無限な慰めを与えれる希望を抱いて新しい年を歩み始めたいと思います。

(説教要旨/菅根記)